落語から学んだ「身一つで伝える」こと【ダンスとの共通点】

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先日、浅草演芸ホールの寄席に行ってきました。

寄席に行くのは約2年ぶり、2回目です。

実は小さいころから笑点が好きで、いつか寄席に行ってみたいと思っていて…2年ほど前に初めて行きました。(そのときは横浜のにぎわい座に行きました)

今回は昼の部を最初から最後まで見たのですが、たくさん笑って楽しかったし、いろいろと学びも多く「落語とダンスって共通点があるのかも?」と考えたりもしました。

みつまる

趣味でストリートダンスをしています

今回は、落語を聴いた感想や学んだこと、考えたことなどをシェアさせていただきます。

落語っておもしろい

浅草演芸ホール

浅草演芸ホールは初めて行きました。

昼の部と夜の部に分かれていますが、入れ替え制ではないので一度チケットを買って入場すれば何時までいてもOK。

みつまる

ただし、一度出てしまうと再入場はできません

私は昼の部を最初から最後まで見ましたが、とくに印象に残った演目は「やかんなめ」と「馬大家」という落語です。

「やかんなめ」は登場人物が5人くらいいたのですが、噺家さんの演じ分けが見事で、世界観に引き込まれてしまいました。

それから、噺家さんが「まくら」(本編が始まる前の小話)で観客を自然と引き込んでいくのもすごかった!

「暑い日が続きますね~」とか「最近こんなことがありましてね…」みたいな世間話みたいな話から始まって笑いにつなげていくセンスや着眼点はすごいと思ったし、「なんてことない日常をおもしろがる視点」があるんだろうなと思いました。

きっと日常生活のいろんなところで「おもしろいことないかな」って目を光らせていて、自分の人生の全部をまくらや落語のネタ・素材にしているんじゃないかなって。自分の失敗とか、「こんな変な人がいました」とか、電車の中で見た光景とか。

「見立ての力」がすごい

パンフレット
いただいたパンフレット(絵がかわいい)

噺家さんの表現でもうひとつすごいと思ったのが、小道具が扇子と手ぬぐいしかないのに

扇子がお箸や刀、筆、煙管、釣り竿になったり

手ぬぐいが本、財布、手紙、お皿、赤ん坊になったりする

こんなふうに限られた道具をいろんなものに見立てて、ないはずの光景を描いて、観客にもそれを見せてくれるのがすごいと思いました。

自分の体とたった2つの道具だけで、ありとあらゆるものや情景を表現できてしまうのは、どこかミニマリズムにも通じるものがある気がします。

あと噺家さんって咀嚼音とか効果音とかも上手すぎて、何かを食べているシーンだと本当にお腹が空いてきちゃったりするんですよね…(笑)

落語とダンスの共通点

照明

「身一つで表現する」こと

私は趣味でストリートダンスをやっているのですが、落語を聴いていて「落語とダンスって、意外と似ているところがあるかも」と思いました。

噺家さんはたった一人で高座に出てきて、話術、表情、体の動きを使ってありとあらゆる光景をそこに描き出す。

ダンサーも(舞台の上では一人ではないかもしれないけど)動きやリズムの取り方、空間の使い方、表情で世界観や感情を表現する。

こんなふうに「自分という存在」がすべての表現のベースになるという点で、似ているかもと思いました。

そして、この自分をベースにした表現にはたぶん正解とかゴールとかもないんだと思います。

みつまる

だからこそ自由に、そしてどこまでも深めていけるんだろうな

ダンスに活かせそうなこと

噺家さんの「日常のなんてことないできごとを面白がる視点」はダンスにも活かせそうだと思いました。

たとえば

「電車で見かけた変な人の動きをダンスに落とし込んでみる」

「物の動きや自然現象をダンスで表現しようとしてみる」

こんなふうに。

ストリートダンスのひとつでポップ(ポッピン)というジャンルがあるのですが、ポップではロボットや人形みたいな動きをすることもあって、これは「日常の素材を表現に落とし込む力」を活かせそうだなと。

また、噺家さんの「ないものをそこにあるように見立てる力」は、ダンスでは「無音だけど音を感じさせるように動く」とか「壁があると思って表現する」「そこに相手がいると思って踊る」みたいなところにつながるかなと思ったり。

あと、これは完全に余談ですが「日常をおもしろがる視点」っていうのはブログでも動画でも、すべての表現をしている人に活きる視点なんじゃないかとも思いました。

みつまる

なんてことない出来事でも、すべてが発信のネタ・素材になる

個性は真似することから生まれる

クリームあんみつ
帰り道に食べたクリームあんみつ

以前、大学の落語研究会を題材にした小説『おあとがよろしいようで』を読んだときに、印象に残るセリフがありました。

誰の真似もしないで、誰もやってないことで、オリジナルを生み出して、自分らしさってやつを発揮しようとしても個性なんて育たないんだよ。(中略)徹底的に同じことをやってみないと、個性なんて発露しない。だって、どこまでも同じことをやってるのに、一緒にならない部分のことを『個性』っていうんだろ?

『おあとがよろしいようで』喜多川泰

落語研究会で主人公の先輩にあたる人物が「同じ落語でも、違う噺家がやるとまったく違うものになる。それが個性」と言っているシーンがありました。

たしかに古典落語とかだと、同じ題材をいろんな噺家さんがやっているけど、テンポや声の抑揚、感情のつけ方などでまったく別の作品のように感じられたりします。

これってたぶんダンスも同じで、先生の動きをそっくりそのまま真似しても、骨格や体型が違うからまったく同じものにはならないし、カッコよく見える動きや形、角度は人それぞれ違う。

でも真似することを続けているうちに、だんだんとカッコよく見せられる方法が分かってきて、自分だけの表現が生まれたりする。

個性ってなにもないところから突然生まれるんじゃなくて、何かを真似しようとして(あるいは誰かになろうとして)でもどうしても同じものにはならない…っていうところからにじみ出てくるものだということを改めて感じました。

まとめ

東京スカイツリー
帰り道に撮ったスカイツリー

寄席で落語を聴いた体験から、表現に対する新しい視点を得ることができました。

「落語とダンスって、共通点があるかも」と思えたことはとても興味深かったし、表現者(ダンサー、ブロガー)としての自分をもっと磨いていきたいなとも思いました。

都内にはほかにもいくつか寄席があるので(新宿廣末亭、池袋演芸場、お江戸上野広小路亭)また行ってみたいと思います。

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